六道まいりはハッピー?

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「六道まいり」というものを、みなさんはご存じでしょうか?実は私もつい最近まで知らなかったのです。

 東山通りを祇園から南へ下がり、清水道あたりで松原通りが交叉するのを少し西に入ると、六道珍皇寺というお寺があります。六道まいりは、この寺のお盆の精霊迎えの行事なのです。特に初盆を迎える親類をもつ人々がお参りに来られるようです。そこで私もお参りにやってきました。

 夕暮れどき、もうお参りの人で境内はごったがえしています。お寺の入り口には、お参りに使う高野槙やミソハギ、それにハスの蕾みや若い実を束ねたお飾りを盛んに売っています。高野槙は一束500円也です。

初盆の人の名前を水塔婆に書いてもらい、それをお地蔵さんに供え、高野槙で水をかけてお祈りをするのです。

お盆には欠かせないアイテム、ホオズキもちゃんと売られています。

 六道珍皇寺を出て、松原通りを少し西に歩いていくと、「六道の辻」というところに来ます。ここは、かつて都の野焼き場のあった「鳥辺野」の入り口にあたるところだということです。その場所に「六道の辻地蔵尊・西福寺」という小さいお寺があります。

 ここもお精霊迎えのお参りでにぎわっています。ここでは、座敷に上げていただき、いろいろな掛け軸を見ることができます。大きな地獄絵が何まいも掛けられています。なかなかすさまじいものです。私は小さい頃にはこのような図を見せられたことはありませんでしたが、子供にとっては心のトラウマになるのではないかと思えます。

 すでに大人になって久しい私が見ても、少しショックを受けたのは、次の掛け軸でした。人が死んだ後の自然の変化を九つの相に分けて図示したものです。解説によると、あるお后が、『自分の死んだ後は、葬式をせずに遺骸を野原に捨てよ。その姿を見れば、色欲に捕らわれた者たちを少しは悟らせることができるだろう』と遺言され、その通りに実行された。その様子を九段階に分けてリアルに解説、表現したものなのです。私の感じたのでは、科学的にもかなり正確な描写だと思いました。このようなことを実行するとは、このお后は究極の教育者であるかもしれないなあと、思ったことでした。

こういった絵を見ていると、この六道の辻の辺りが、実はこの世とあの世の境目のような雰囲気になってきます。
 六道の辻から南へ数十メートル歩くと、六波羅蜜寺があります。ここはまた、空也念仏で有名なお寺で、折しも同じ時期に万燈会が行われています。

 このお寺はまた、マラリアの高熱の中、のたうちまわって死んだという平清盛の関係でも有名です。口から小さな仏様の像を幾つも出している空也上人と、かなり憔悴した感じの清盛の像を本堂の裏の宝物館で見ることができました。

夕暮れの光の中、紫の前垂れのお地蔵さまが、不思議な光を発しながら並んでおられます。六道の辻は、まさに現世と幽界とが交錯する一帯なのです。松原通りをさらに歩くと、ふと『幽霊』という言葉が目に飛び込んで、思わず背筋がゾクッとしました。幻かと思ってよく目をこらすと、という看板なのです。
 「幽霊」?「子育飴」?しかも「京名物」となると、目が吸い寄せられてしまいます。人気(け)のない店で、影の薄い感じの女の人がこの飴を売っておられます。

 飴の横には次のような主旨の由来の説明がありました。
『 今は昔、慶長四年(1599)京都の江村という武士が身重の妻をなくし葬った。ところが数日を経て土中に幼児の泣き声が聞こえるので掘り返してみると、亡くなった妻が土中で産んだ児であった。当時夜な夜な付近のこの店に飴を買いに来る婦人がいたが、赤ん坊を掘り出した後は、ピタリと来なくなった。人々は、亡くなった妻が幽霊になって毎夜この飴を買い、赤ん坊に与えて育てていたのだとうわさした。誰いうとなくその飴を、幽霊子育ての飴と唱え、それを宣伝にして大いに人気を博し、今日に至った。なおこの子どもは八才で出家し修行怠らず成長し、高名な僧になった』と。
 今の世では、飴の名に『幽霊』を冠するのはコピーとしてはNGでしょうが、かたくなにこの名前を守っておられる姿勢には頭が下がります。私は思わず一つ買ってしまいました。家に帰って食べてみると、上品な甘さでなかなかおいしく、赤ん坊が育つというのもムベなるかなと思うのでした。

*           *

 現世と幽界のはざまを揺れて、宙に浮いたような感覚を味わいながら、人の生と死とに思いを馳せて、再び松原通りの人並を歩いていると、こんな看板に出あいました。

「ハッピー六原!」。突然、強引に現世の側に引き戻され、私の頭の中で「地獄」と「幽霊」と「ハッピー六原!」が渦巻き、何か独りでに笑えてきてしまうのでした。
 京都の中に、こんなに素晴らしくディープで濃い場所があるのを、初めて体験した一日でした。