油屋はまだ、油を売っているのか?!
京都の街の住宅街の真ん中に、突然上のような水車があるではありませんか!おまけにこの水車、筧から水が落ちて、ちゃんと回っているのです。その東側には下のような風情のある門構えがあり、溝の中にはコイまで悠然と泳いでいます。これはただごとではありません。気の利いた老舗の料理旅館でもあるのかと、周囲を見回してもそんなものはありません。ただの道楽で水車を回しているとすれば、よっぽど酔狂なお方とお見受けしました。
反対の西側には、敷地は二三十メートル続き、下のような油屋の店舗があります。そうです、この水車はこの油屋さんのものなのでした。由緒ありそうな古びた店先です。
山中油店とある暖簾は、デザイン的にも素晴らしいものです。暖簾の前には、戦争中にこの店の敷地に落ちた米軍の爆弾の破片を展示をしておられます。京都にも空襲があったことを初めて知りました。また右の地名票も時代を感じさせます。仁丹のマークのなつかしいこと!また上の上京区が右書きなのに注目してください。
店の中には、様々な種類の油が置いてあります。白灯油、モビール、桐油、椿油、マシン、亜麻仁、といったラベルが見えます。また前の樽には油粕が置いてあります。しかし何といっても菜種油の関係が目につきます。暖簾には、創業文政年間(1818-29)の文字が見えます。
この店が気になり出したころ、ちょうど私は司馬遼太郎の『菜の花の沖』を読み始めました。と、その冒頭に、18世紀には菜種油の製造が近畿、特に西宮を中心とする阪神間で盛んになり、この菜種油の大量製造とその販売で大阪の繁栄の基礎が築かれた。これには水車による搾油技術の進歩が大いにあずかっている、という主旨の記述がありました。
私は、これだ!とおもわず心の中で叫んだものでした。この油屋さんの水車は、単なる酔狂ではなかったのでした。こういった歴史的な背景を担った記念すべき水車だったのです。油屋と水車は切っても切れない関係があったのでした。
この店が創業された文政時代は、19世紀の前半で、江戸時代後期の文化の爛熟時代(化政文化)と言われた時期です。現代のように大衆文化の花盛りであったようです。「おかげまいり」が大流行し、何百万の人々が熱にうかされたように伊勢参りの旅に出たのもこの時代でした。
このような時代に、油は灯火のエネルギー源として、今なら電気やガソリンにも匹敵するような位置にあっただろうと思います。
またこの店の古風な佇まいを見ていると、思わず近松の「女殺し油地獄」の油屋の場面を思いだしてしまいました。昔大阪で見たこの演題の山場は、若い男が油屋の店先で油にまみれてぬるぬる滑りながら、女を殺そうとする壮絶な場面なのです。といってもそれはこの店には直接関係のないこと。
それにしても、こんな連想を呼び起こす力をもったこの店は、維持されている方々の心意気を感じさせるものに溢れているのです。皆さんも機会があれば、ぜひ一度寄ってみてははいかがでしょうか。
この項終わり
《追記》2001.9.4
このページをアップしてから、思い立って山中油店を検索エンジンで調べてみると、山中油店のホームページがちゃんと存在していました。
そこには、お店の歴史から商売の内容に加え、「油の歴史」や各種の油についての蘊蓄、町家改修についてのページにエッセイ風のページなど、単に商売のためでなく、文化的な香り高く紹介しておられます。そこでぜひ、そのホームページを紹介させてもらおうと、リンクのお願いのメールを出したところ、ていねいなお返事をいただきました。その一部を紹介すると、
『今ではすっかりめずらしくなってしまった油の専門店ですが、
油屋は今も元気に油を売っております。
店頭では菜種が印象的であったようですが、
(創業当時はお灯明用の菜種が販売の主流であったことから
復古調のディスプレイをしてみました。)
職人手作りの胡麻油、遺伝子組替えをしていないコーン油、
そして最近では、イタリアからオリーブオイルを直輸入販売するなど
他には真似の出来ない「油屋」としての「油売り」をしています。』
ということです。
山中油店のホームページへは、ここをクリックしてください。
上で触れられている各種のオイルを、通販で購入することもできます。ぜひ一度、飛んでいってください。