墓碑めぐり

法然院(1)九鬼周造
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 銀閣寺の少し南に法然院というお寺があります。銀閣寺の参道から疎水と哲学の道沿いに10分くらい歩いたところです。
ここのたたずまいはなかなかのもので、知る人ぞ知る、というお寺です。茅葺きの山門と、そのかたわらにある石碑は有名で、よく写真誌を飾るシーンです。

 この碑には、「不許葷辛酒肉入山門」(くんしんしゅにく、山門に入るを許さず)と書かれています。つまり、「ニラやニンニクといった臭く辛い野菜や肉などなまぐさものを食べたもの、酒を飲んだものは、山門に入るのを禁止する」という意味。碑文に自らを照らし合わせながら、このこじんまりとした山門を入ると、その緑の照り返す庭には、毎週そのデザインを変える二つの砂盛りと、静かな池があり、旅人の心を癒すたたずまいです。
 またここは椿で有名でもあり、境内に入る前のヤブツバキの群生もさることながら、奥庭(これはふだんは非公開)には、五色の散り椿という木があります。東山のふもとの緑深い寺で、自然をはだで感じることのできる場所です。

*  *  *

 もう一つ、この法然院が有名なのは、著名な人物たちの墓があることです。その中で、今日は哲学者の九鬼周造の墓を取り上げてみましょう。九鬼周造は「いきの構造」で有名な哲学者で、京大の教授でした。文字通り「いき」を実践して、祇園のお茶屋から京大の講義に通ったという伝説があるくらいです。実は私は、この墓の存在を学生のころから知っており、何かと気になる存在でした。そのわけは、以下を読んでいただければわかると思います。

 この墓は、法然院の墓地の少し奥まった斜面にあります。特別大きくもなく、目立つものではありませんが、ピンクがかった御影石が普通とは少し趣きの異なった雰囲気をかもしています。墓碑には、硬筆のタッチで『九鬼周造之墓』と刻まれています。特別広くはない墓域は、苔がむしています。私が初めてこの墓を「発見」したとき、こころを動かされたのは、向かって右側の面を見たときからです。そこには、次のように刻まれていました。


ゲーテの歌 寸心
見はるかす山ゝの頂
梢には風も動かす鳥も鳴かす
まてしはしやかて汝も休らはん

 これもおそらくは硬筆の達筆な文字は、判読しにくいのですが、何とか読むことはでき、大意を理解することは可能です(この訳には濁点句読点がついていません)。このような静寂の中で、身も心も休らう人に対する憧憬が湧き上がってきます。この墓の下に永遠の眠りを眠る人はどんな人なのだろうかと。
 中国文学者である一海知義氏によると、「京都の法然院には、・・・著名な人々の墓がある。『いきの構造』で知られる哲学者九鬼周造の墓もここにあり、その墓碑の側面に、ゲーテの詩"Wandrers Nachtlied"(旅人の夜の歌)の和訳が刻まれている。末尾の署名は、寸心。すなわち西田幾多郎。西田訳の西田自身による揮毫である。」(『詩魔−−二十世紀の人間と漢詩』藤原書店、1999より)とあります。
 一海氏によると、住谷悦治氏(元同志社大学総長、1895-1987)は、この墓碑に触発され、ゲーテのこの詩の和訳を30種以上集めたということです。実は私が、この墓が気になっていたというのは、この詩ゆえにだったのです。さすが『いきの構造』を物した哲学者の墓、しかもそれがゲーテの詩で、揮毫が西田幾多郎(彼は、九鬼の師であり同僚教授でした)ときては、しびれます。尚『九鬼周造之墓』も、西田の最後の揮毫だそうです。
 学生時代、この墓を「発見」して、この詩を読んで素敵だなと、思っていたときには、この詩の作者や揮毫についての知識はなかったけれど、この墓の強い印象はずっと記憶の底に漂っていたのでした。
 ある時、多分朝日新聞の文化欄に、一海氏の筆になる「旅人の夜の歌」についての記事が掲載され、長年の謎が解けた思いだったのです(この記事は上の『詩魔』の記事とは違っていたと思いますが)。
 しかし、一海氏といい、住谷氏といい、九鬼周造の墓に強くこころを動かされる人々がいるという事実に、私は何かしら不思議なものを感じます。これは確かに、この墓のセンスの良さが光っいるからだと思いますが、それだけでなくここに眠っている人の人生に思いを馳せさせるような喚起力が、この墓碑にはあるからではないでしょうか。

《注記》2015年5月記。
 このほどこのページをご覧になった方から、いくつかの間違いを指摘され、修正をいたしました。ご指摘、ありがとうございます。

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