鞍馬の火祭り5

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「鞍馬山の燃える日」

・「今夜、すごい祭りがあるらしい。一緒に見に行かないか?」と、友人に誘われたのは、学生時代、間近かに迫った学園祭の準備をしていて、仲間とラーメン屋に入ったときだった。それは面白そうだということで、ラーメンも早々に出町柳から叡山電車に乗り込んだ、というのが私の「鞍馬の火祭り」との出会いだった。

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・稲の刈入れが終わったたんぼには稲の刈り跡と、稲架が並んでいた。ゴトゴト走る叡山電車は、徐々に山間に入って行き、右側に渓流、左側に山肌を眺めながら、貴船を過ぎるともう終点の鞍馬駅に着く。鞍馬に降り立つと、既に薪を燃す煙りが匂っている。谷間の夕暮れは早い。日が山の端に陰るとさっそく冷気が足元から上がってくる。

・はじめは子供の松明だ。街道に沿って、子供の小さな松明がいったり来たりする。それが一段落すると、いよいよ大人たちの松明が登場だ。二三人の男が火の付いた一つの大きな松明をかついで練り歩く。男たちはお神酒が入っていて、よろよろと見物人の中へぶつかっていく。これは、ほとんどわざとやっている。そのたびに見物人たちは、大きな悲鳴を上げてにげまどう。

・松明の数がだんだん増えてゆき、いよいよ男たちに勢いがついてくると、三門前の石段に松明が集まってくる。そして松明を立てると、辺りは炎の渦となる。谷間が炎に包まれると言われる通りになる。

・男たちはそのまわりで「サイレヤ、サイリョウ」の掛け声をさけび、その声はさらに大きくなって、まわりの山へと吸い込まれていく。祭リの男たちは、ほとんど陶酔状態のように見える。そして見物人たちも、その陶酔の中に巻き込まれていく。その興奮状態が高まった9時ごろに、いよいよ神輿が出て、祭りの最高潮となる。

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・「チョッペイ」という行事があるらしい。今年成人を迎えた若者が、神輿が出て行くとき、そのかつぎ棒の前にかつぎ上げられ、衆人の前で大股を開くというものだという。これは成人になったということを、村人にお披露目をする、一種の通過儀礼であるということだ。これは一瞬で終わってしまうので、見物人にもみくちゃにされながら少しでも見ようとするのは、至難の技だ。

・三門の前の階段からかつぎ降ろされた二基の神輿は、街道を上の方へと練り歩く。そこここの家の前で篝火が焚かれ、独特の複雑なリズムをもつ太鼓が打ち鳴らされる。神輿は家の途絶えるところまでくると、一旦休息する。神輿が出ると、見物人たちは潮が引くように、三々五々帰っていき、一度に街道沿いが広々してくる。寒気に薪の燃える匂いと煙が交じりあう。

・しかし、本当に土地の祭リらしさが表われてくるのは、これからなのだ。村人たちは緊張が緩んで、よそ行きの様子から、リラックスした様子に変り、生き生きとした表情を見せるようになる。ここに掲げた写真の大部分は、これ以降の様子を写したものだ。家々は、座敷を開け放して、祭りの飾りつけや屏風などを道行く人々に披露している。

・しばし休息して、神輿は街道の下の方の、御旅所に向けて動きだす。このときには、土地の人々が一緒に行列を作ってついていく。みな高揚したなかに、一種の安堵の表情が見える。御旅所では籠松明という巨大な松明に火を入れ、何人もの力を合わせて、並べて立てる。そのころにはもう日は替わり、午前一時近くになっている。

・神輿を御旅所に収めるに当たって、一段と太鼓のリズムが激しくなり、「サイレヤ、サイリョウ」の掛け声も大きくなる。籠松明の明かりの中、男たちは再び激しく揉み合い、興奮の渦に包まれていく。こうして火祭りは、二度目のクライマックスを迎えることになる。

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・ところで小説家志賀直哉は、彼の代表作『暗夜行路』の中で、この鞍馬の火祭りを取り上げている。これはあまり知られていないようなので、それを紹介しよう。主人公の時任謙作が、京都の衣笠村(現在は京都市内。金閣寺の近く)に住んでいるとき、この祭りを見物しているのだ。この祭リ見物は、単なるエピソード以上の意味を与えられているように思われる。すこし長いが、その部分を引用してみよう。

志賀直哉『暗夜行路』17(岩波文庫版による)
『十月の下旬のある日、謙作は・・・鞍馬に火祭りというのを見に行った。日の暮れ、京都を出て北へ北へ、いくらかの登りの道を三里ほど行くと、遠く山の狭がほんのり明るく、そのへん一帯薄く煙の立ちこめているのがながめられた。苔の香をかぎながら冷え冷えとした山気を浴びて行くと、この奥にそういう夜の祭りのある事が不思議に感ぜられた。子供連れ、女連れの見物人が提灯をさげて行く。それを時々自動車が前のもり山の根に強い光を射つけながら追い抜いて行く。山のほうからは五位鷺が鳴きながら、飛んで来る、そして行くほどに、かすかないぶり臭いにおいがして来た。

 町では家ごと、軒さきに−−−と言っても通りが狭いので、道のまん中を一列にたき火が並んでいた。大きな木の根や、人の背たけほどある木切れで三方から囲い、その中に燃えているのが、何か岩間の火を見るような一種の感じがあった。
 たき火の町を抜けると、やや広い場所に出た。幅広い石段があって、その上に丹塗りの大きい門があった。広場の両側はいっぱいの見物人で、その中を、褌一つに肩だけちょっとした物を着て、手甲、脚絆、草鞋がけに身を固めた向こう鉢巻の若者たちが、柴を束ねて藤蔓で巻いた大きな松明をかついで、「ちょうさ、ようさ。−−−ちょうさ、ようさ」こういう力んだ掛け声をしながら、両足を踏んばり、右へ左へよろけながら上手に中心を取って歩いている。ある者はよろけるふうをしてわざと群衆の前に火を突きつけたり、ある者は家の軒下にそれをかつぎ込んだりした。火の燃え方が弱くなり、自分の肩も苦しくなると、ひとかかえほどあるその松明を不意に肩からはずし、どさりと勢いよく地面へ投げおろす。同時に藤蔓ははじけて柴が開き、火は急に非常な勢いで燃え上がる。若者は汗をふき、息を入れているが、今度はまた別の肩にそれをかつぐ。それも一人ではとても上げられず、そばの人から助けてもらうのである。

 この広場を抜け、先の通りへはいると、そこにはもうたき火はなく、今の松明をかついだ連中が「ちょうさ、ようさ」という掛け声をして、狭い所を行きかう。子供は年相応の小さな松明をわざと重そうによろけながらかつぎ回った。町全体が薄くけむり、気持ちのいいぬくもりが感ぜられる。

 星の多い、澄み渡った秋空の下で、こういう火祭りを見る心持ちは特別だった。一筋の低い軒並みの裏はすぐ渓流になっていて、そして他方はまた高い山になっているというような所ではいくらにぎわっていると言っても、そのにぎやかさの中には山の夜の静けさが浸み透っていた。これが都会のあの騒がしい祭りより知らぬ者にはたいへんよかった。そして人々もいったいにまじめだった。「ちょうさ、ようさ」この掛け声のほかは大声を出す者もなく、酒に酔いしれた者も見かけられなかった。しかもそれはすべて男だけの祭りである。

 ある所で裸の男が軒下の小さな急流にすわって、目を閉じ、手を合わせ、長いこと何か口の中で唱えていた。清いつめたそうな水が乳のあたりを波打ちながら流れていた。大きな定紋のついた変に暗い提灯を持った女の子と無地の麻帷子をひろげて持った女とが軒下に立ってその男のあがるのを待っていた。ようやく唱え言を終わると男は立って、流れの端にそろえてあった下駄をはいた。帷子を持った女がぬれたからだに黙ってそれを着せ掛けた。男は提灯を待たず、下駄をひきずってすぐ暗い土間の中へはいって入った。これはこれから山の神輿をかつぎに出る男であるという。

 こういう連中がまもなく石段下の広場におおぜい集まった。そこには二本の太い竹に高く注連縄が張り渡してあって、その注連縄を松明の火で焼き切ってからでなければその石段を登ることができないとの事だ。しかし縄は三間より、もっと高い所にあって、松明を立ててもその火はなかなかとどきそうにない。たくさんの松明がその下に集められる。そのへん一帯、火事のように明るくなり、早くその焼き切れるのを望み、仰向いている群衆の顔を赤く描き出す。

 やがて、ようやく火が移り、縄が火の粉を散らしながら二つに分かれ落ちると、まっ先に抜き刀を振りかざした男が非常な勢いで石段を駆け登って行った。すぐ群衆は喚声を上げながら、それに続いた。しかし上の門にもう一つ、それは低くちょうど人の丈よりちょっと高いくらいに第二の注連縄が張ってある。先に立った抜き刀の男はそれを振りかざしたまま駆け抜ける。注連縄は自然に切られる。そして群衆は坂道を奥の院までそのまま駆け登るのである。
 「どうだい、もう帰ろうか」と謙作は末松を顧みて言った。
 「お旅でやるお神楽を見て行こうよ」
 神楽というのは四五人でかつぐような大きな松明をいくつか、神楽の囃子に合わせて、神輿のまわりをかつぎ回るのである。
 「大概もうわかったじゃないか。早く帰って寝ておかないとあしたの音楽会で参るぜ」
 「何時だ−−−二時半か」時計を見ながら末松が言った。
 
「これで京都へ帰るとちょうど夜が明けるかもしれませんよ」と水谷が言った。
 「それじゃあ、帰るか」末松は未練らしく言った。「神輿をおろす時がなかなか勇ましいそうだ。坂だからだんだん早くなるので、太い縄をつけといて、それを女がおおぜいで逆に引っぱるのだそうだ。この祭りで女の出るのはそれだけなんだ」
 「とにかく帰りましょう。夜が明けてから三里、日に照らされて歩くのは思いですよ」と水谷が言った。
 末松も納得した。たき火の町では、来る時、岩間の火のように見えていたのが今は盛んに燃えていた。町を出ると急に山らしい冷気が感ぜられた。四人は時々振り返って、明るい山の狭を見た。道は行きより近く思われ、下りで楽でもあったが、やはりみんなだんだん疲れて、無口になった。・・・

 京都へはいるころは実際水谷が言ったように叡山の後ろからしらじらと明けて来た。出町の終点で四人はしばらく疲れたからだを休めた。まもなく一番の電車がきて、それに乗り、謙作だけは丸太町でみんなと別れ、北野行きに乗り換え、そして秋らしい柔らかい日ざしの中をようやく衣笠村の家に帰って来た。』

・謙作が、家に帰り着くと、妻が子供を出産したことを知らされる。この火祭りの描写の中で、妻の出産については一言も言及されていなかった。そこが志賀直哉のうまいところだろう。現代であったら、妻の出産の日に呑気に徹夜で祭リを見物するノーテンキさは、非難にあたいすることだろう。

・しかし、妻の出産というイベントを抱える謙作の心理は、いやが応でも一種の緊張・高揚の状態にあり、日常から隔たったものであるはずだ。その高揚が、火の祭りというもう一つの高揚と呼応している。
・しかも生まれて来る子供は、幼いうちに死んでいく運命にある。・・・

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・さて、志賀直哉はこの中で、祭リの掛け声を「ちょうさ、ようさ」と表現しているが、現在では明らかに「サイレヤ、サイリョウ」というものだ。この掛け声はかなり有名であるらしく、いろいろな資料に出て来る。志賀直哉の時代から現在までの間に、掛け声が変化したとは少し考えづらい。恐らく志賀の記憶の間違いなのだろう。
・この掛け声の由来で普通に言われているのは、「祭礼、祭礼」という言葉がなまったものというのが一般的だが、これは当たり前すぎてつまらない。民俗学の方からは、これはもう少しsexualな意味が込められているという説があり、こちらの方がもっともらしいし面白いと、私は考えている。

・祭りは、人のこころをざわめかせる何かをもっている。また、暗闇に揺らめく薪の炎も人を魅了するものをもっている。この二つの要素を合わせもったこの祭りは、これからも人のこころを捉え続けるものと私は思う。(終わり)

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