『方丈記』より(3)

遷都

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 また同じ年(1180年)の六月のころ、にわかに遷都が行われた。これはたいそう意外なことであった。そもそもこの都の始まりを聞くと、嵯峨天皇の御代に、都と定められて以来、既に数百年を経過している。さしたる理由なく安易に変えるべきものではないので、これを世間の人々が難儀なこっちゃと嘆きあっているのも当然すぎるほどだ。

 しかしとやかく言ってもしかたなく、帝をはじめとして大臣・公卿はことごとく摂津の国浪速の京(福原京、現在の神戸)にお移りになった。公に仕える人は誰一人として京に残る者はいない。自分の地位を守ることに懸命で、主君の覚えを頼りにする人は、一日でも早く移ろうと汲々とした。タイミングを失いあぶれてしまった者は、嘆きながら京にとどまった。

 かつては軒を競った家々は、日がたつにつれて荒れていく。家は壊されて淀川に浮かび、見る間に土地は畑にされていく。人の心はすっかり変わってしまって、馬に乗るためにただ鞍を重宝し、牛車を必要とする貴人はいなくなった。だれもかれも西南海の方面の領地を望み、東北方面の荘園は嫌がる。このころたまたま機会があり、津の国の新都に参った。その地勢を見ると、土地は狭く条理制とするには足りない。北は山に向かって高くなり、南は海に面して低くなっている。波の音はいつもうるさく、潮風はとりわけはげしい。内裏は山の中なので、あの木の丸殿もこんな様子だったのではと思わせるばかりで、なかなかな珍しい光景で、風情を感じる点もある。

 日々に壊して川面も混雑するくらい運び下る家はどこに作るのだろうか。さらに空き地は多くなり、作る家は少ない。旧都は既に荒れて、新都はいまだ形をなさない。

 あらゆる人がみな、覚束ない不安を感じていた。もともとこの土地に住んでいた人々は土地を奪われ憂い嘆き、新たに移り住んだ人々は、建設の苦労を嘆く。往来をみると車に乗るべき人々が馬に乗り、衣冠の盛装を着用すべき人々は普段のひたたれを着ている。?都のてふりたちまちに改まり、ただ田舎びた武士にほかならない。これは世の中が乱れる兆しだと

人心も治まらず、民衆の不満がいや増してきたので、同じ年の冬に、また京に帰ってこられた。しかしながら壊してしまった家などはどうなっただろうか。隅々まで元のように復元したわけではない。
 かすかに伝え聞くに、昔の賢帝の時代には、慈悲の心ろをもって国を統治された。つまり宮廷に茅を葺いて、軒さえ整えなかった。都に煙りの上がり方が少ないとご覧になる時には、多くないみつぎものさえお許しになった。これは民が潤い、世の中を救済されるためであった。今の世のありさま、昔と比較し知るべきである。

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 この項は、他の四つの災厄が天災であるのに対して、純粋に人災といえるでしょう。云うまでもなく、平清盛による福原遷都とその失敗の模様を、当時の生活者の視点から描いています。各階層、欲と利害のからまった人間模様がよく出ています。