『方丈記』より

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五大災厄
大火
竜巻
遷都
飢饉
地震

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 『方丈記』といえば、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし。」云々という、冒頭の名文は有名ですが、この短い古典の全文を読まれた方は少ないのではないでしょうか。
 この冒頭の文からは、無常観を説いた抹香くさい内容を想像してしまいますが、少なくとも『方丈記』の前半部分は、平安末期の混乱期の京都・平安京の生々しいドキュメントとなっています。
 そういう意味で作者の鴨長明は、12世紀の優れたドキュメンタリ記者ということができるでしょう。現代に暮らしている私たち(特に京都に暮らしている私)にも、このような記録には関心をもたざるを得ません。

 長明は、『方丈記』の前半で五つの災厄を語っていますが、その中の四つは自然災害で、一つは人災(清盛による福原遷都とその失敗)です。これらは1180年から1185年の間に立て続けに起こり、長明は廿代の若い時期に体験しているのです。自らが目撃・体験した同時代の災害や政治の大変化を、それを蒙った人々と京都・平安京の有り様を、その時代を生きた目から生々しく記録しています。この記述は非常に具体的で、そこに登場する地名は今日の京都の地名とも共通するものがあり、読んでいるとその状況が彷彿としてきます。特に自然災害とそこに住む人々の描写はその正確さにおいて特筆すべきものだと思います。
 京都に住む私としては、『方丈記』の特にこの部分を、カビくさい古典の中に閉じ込めておくのでなく、みなさんにも読んでいただき、約800年前の京都を襲った天災・人災と、それに巻き込まれた生活者の状況を、他人事でなく受け止めていただきたいと思うのです。
 特に飢饉の極限的な状況は、まさに地獄絵巻と言っても過言ではありません。死者の数の統計を客観的に記述しようという人間の理性的な営みにも感嘆しますが、その数の語る悲惨さに(特に京都に住んでいる私としては、地名が具体的に解る関係もあり)、驚嘆します。
 また大地震の記述は、京都も大地震に襲われうるのだということを、我々に喚起させてくれるのです(実際に京都の東北には花折断層が走り、これは吉田山の東を通過し、聖護院にまで至っているということです)。

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 ここで、長明の時代がどんなものだったのかを考えてみます。同じ時代に生きた人としては、平清盛、源頼朝・義経、木曽義仲、藤原俊成・定家、西行、法然上人などがいます。平家の全盛の時代から、源平合戦を通じて、壇ノ浦での平家の滅亡(1185年)、源氏の政権・鎌倉幕府の確立へと、続きます。この動乱の時代に、自然も歯車を狂わせたのか、次々と苛酷な災害をもたらすのです。
・大火(1177年、長明23才)
・竜巻(1180年、長明26才)
・遷都(1180年、長明26才)
・飢饉(1181-2年、長明27才)
・地震(1183年、長明29才)
長明は50才ごろに隠遁したとされています。それまで歌人として活躍していたのが、以降の隠棲の様子は、『方丈記』の後半に詳しく描かれます。大原から日野(山科方面)に移り、そして長明58才(1212年)ごろに、『方丈記』が完成しているのです。健保4年(1216年)、62才で長明死去します。
 このように見てくると、長明の生きたこのころは、まさに貴族の世の中から武士の世への転換期、激動の時代であったと言えます。このような時代についての貴重な証言を、この『方丈記』は語っているのです。
《付記》
ここに訳出した『方丈記』に興味をもたれた方は、ぜひとも立川昭二著『病いと人間の文化史』(新潮選書・昭和59年) に当たってください。もう書店には出ていないでしょうから、図書館などで探していただくといいと思います。一読をオススメします。
次に、本文に出てくる当時の時間と方角についての、表現を参考に掲げておきます。

時間と方角


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