『方丈記』より(4)
飢饉
また養和のころ(1181年)だったろうか、だいぶ昔になって定かには覚えていない。
二年間ほど、世の中に飢饉が続いて、表現できぬほどひどいことがあった。春夏の日照り・干ばつ、秋冬の大嵐・洪水など、悪天候が続いて、五穀がことごとく実らなかった。春に田を耕し、また夏に植え付けの作業をするが、秋に収穫し、冬に貯蔵するものがなにもない。
こんな有りさまなので諸国の民は、あるものは国を捨て、国境いを越え、あるものは自分の家を忘れ山の中に住む。さまざまの祈祷がはじめられ、とびきりの修法も行われたがその兆候も出ない。京の都の日常では田舎の産物をたのみにしているのに、それもすっかり絶えた。京に上る者もなくなり、食料が欠乏してきたので、取り澄まして生活することはできなくなってしまった。耐え切れなくなって、さまざまな財産を片っ端から捨てるように売ろうとするが、てんで興味を示す人もいない。まれに売れたとしても、金の価値は軽く、粟は重く評価される。物乞いが道ばたに多く、憂い悲しむ声は耳にあふれる。
前の年はこのようにしてようやくのことで暮れた。翌年こそは立ち直るはずと期待したのだが、あまつさえ疫病が発生し蔓延したので、事態はいっそうひどく、混乱を極めた。
世間のひとびとが日毎に飢えて困窮し、死んでいく有さまは、さながら水のひからびていく中の魚のたとえのよう。しまいには笠をかぶり足を包んで、そこそこのいで立ちをしている者が、ひたすらに家ごとに物乞いをして歩く。衰弱しきってしまった者たちは、歩いているかと思うまに、路傍に倒れ伏しているというありさま。屋敷の土塀のわきや、道ばたに飢えて死んだ者は数知れぬばかりだ。遺体を埋葬処理することもできぬまま、鼻をつく臭気はあたりに満ち、腐敗してその姿を変えていく様子は、見るに耐えないことが多い。ましてや、鴨の河原などには、打ち捨てられた遺体で馬車の行き交う道もないほどだ。
賤しいきこりや山の民も力つきて、薪にさえも乏しくなってしまったので、頼るべき人もいないものは、自分の家を打ち壊して、市に出して売るのだが、一人が持ち出して売った対価は、それでも一日の露命を保つのにも足りないということだ。
いぶかしいことには、こういった薪のなかには、丹塗りの赤色や、金や銀の箔が所々に付いているのが見られる木っ端が交じっていることだ。これを問い糺すと、困窮した者が古寺に忍び込んで仏像を盗みだし、お堂の中のものを壊しているのだった。
濁り切ったこの世界に生まれあわせ、こんな心うき目をみるはめになったことだ。
またたいそうあわれなことがあった。愛する相手をもつ男女が、その想う心が深い方が必ず先に死ぬのだ。その理由は、自分のことを後にして、男であれ女であれ、ごくまれに手に入れた食べ物を、思う相手に譲ってしまうからなのだ。従って親と子供では決まって、親が先に死ぬ。また母親が死んでしまっているのに、それとも知らないでいとけない子供が母親の乳房に吸いついているのもいる。
仁和寺に慈尊院の大蔵卿暁法印という方が、このように人々が数しれず死んで行くのを悲しんで、僧侶たちを大勢使って、死体を見る度に、その額に成仏できるようにと阿(あ)の字を書いて仏縁を結ばせることを行った。死者の数を知るために、四月と五月の二月の間その数を数えさせた。すると京のなか一条よりは南、九条よりは北、京極よりは西、朱雀大路よりは東の区画(都の中心部)で、路傍にあった死体の頭は、総計四万二千三百あまりあったという。ましてやその前後に死んだ者も多く、鴨川の河原や、白川あたり、西の京、その他の周辺地域を加えて言うと際限がないはずだ。いわんや全国七街道を合わせたら限りがない。最近では崇徳院のご在位の時代、長承のころにこういった例があったとは聞くが、当時の様子は私は知らない。まことに希有なことで、悲惨なことであった。
※ ※
天候不良による飢饉が京の都に与えた悲惨な状況を、長明は同時代の目でビビッドに報告しています。特に、ここで注目したいのは、死者の数の統計をとって具体的に記述していること。これは二カ月間という期間を限定し、また地域を限定しており、かなりの科学性をもって信頼性は高いとも思われます。
ここで限定された地域は、北を一条通り、南を九条通り、そして東は京極通り(現在の新京極あたり)、西は朱雀通り(現在の千本通り)で囲まれた長方形の区画で、現代の京都の中心部分(ただし河原町通りは含まれない)であり、また当時としては都の範囲を示しているのではないでしょうか。そこに四万二千三百もの遺体が、転がって腐敗していくという様子は、想像を絶しています。しかも鴨河原などには、それを超えるような数が打ち捨てられていたというのです。まさに800年前の京都には地獄が存在したと言えるでしょう。