『方丈記』より(5)
地震
また元暦二年(1185年)のころ、大地震が襲った。その有り様は尋常ではなかった。山は崩れて川を埋め、海では津波が発生して陸を襲った。地面は裂け水が湧き上がり、岩は割れて谷に落ち、渚をこぐ舟は波に漂い、道を行く馬は足元が定まらない。
まして都の内外では、至るところあらゆる建物は一つとしてまともなものはない。あるものは崩れさり、あるものは倒壊する際に塵が舞い上がり煙りのようだ。地が揺れ家が壊れる音は雷のようだ。家の中に居たならたちまち押しつぶされかねない。走って飛び出せばまた地面は割れてしまう。人は羽をもたず空を飛ぶことはできない。また龍でないので雲に上るわけにもいかない。恐ろしいもののなかでとりわけ恐るべきものは地震なのだと実感したことだ。
そういった中に、ある侍の六、七才の一人息子が、築地塀の蔽いの下で小さな家を作ったりして、他愛もない遊びをしていたのだが、この地震で急に塀が崩れて埋められ、無残に押し潰され、二つの目は一寸(3センチ)ばかりも飛び出してしまった。その子供の遺体を父母が抱えて、声も惜しまず嘆き悲しんでいるのは、まことに哀れであった。子供を亡くす悲しみには、勇猛な武者も恥じを忘れてしまうのだと改めて気づいた。これは気の毒だが当然のことだと思われる。
このような激しい揺れは短時間で止んだのだったが、その名残りの余震はその後絶えず続いた。普通にびっくりするほどの強い地震が、一日に二三十度は下らない日はない。十日、二十日と経過していくと、だんだん間遠になって、一日に四五度となり、二三度、あるいは一日おき、さらに二三日に一度など、おおよそ余震は、三カ月ばかり続いただろうか。
四大災害の中では、水火風は常に害をなすのだけれど、大地震は(大地に至りては殊なる変をなさず)
むかし、齋衡(854-857年)のころとかに大地震があり、東大寺の大仏の頭部が落ちたりといったひどい被害があったが、それでも今回の地震ほどではなかったという。その当時は人々は互いにどうしようもないことを嘆きあって、心の憂さを晴らしているように見えたのだが、年月が経過してくると、このような災厄を日常の話題にのせる人もなくなってしまった。
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この大地震の描写は、阪神大震災を身近かに経験した私たちには、人ごとでないように感じられます。始めの部分の一般的な描写はやや類型的になっていますが、子供の悲惨なエピソーはそれを目撃した者にしか描くことができない迫力があります。また余震の頻度が始めは多くてだんだん間遠になっていくのも、今日の科学的な知識と符合していて、興味深いところです。歴史を顧みると、京都にもこのような大地震がしばしば起きていることがわかるのです。