『方丈記』より

とかくこの世は・・・

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 すべてこの世の中は、住みにくく、我が身と我が家がはかなく、かりそめの存在であることは、こういったことを見てもわかる。

 ましてや、その身分や地位によって相応の悩みをもつことは、数え上げればきりがない。もし自分の地位が取り立てていうほどのものなく、権力者に仕える身分であったならば、たしかにいい目はできるかも知れないが、真に楽しむことはできない。思いきり泣きたいような時でも、声をあげて泣くことはできないかもしれない。ちょっとした行動にも遠慮をして、主人の顔色を窺わなければならないさまは、あたかもスズメがタカの巣に近づいた時のようだ。

 もし自分が貧しくて、金持ちの家の隣りに住んでいたなら、朝夕みすぼらしい身なりを恥じて、へつらいながら出入りすることになる。妻や子供、それに召し使いたちが隣りをうらやんでいる様子を見るにつけ、また金持ちの家の者が横柄な態度をするのを見るにつけ、そのたびに心が動き、少しも平静でいられない。もし狭苦しい土地に居るのなら、近くの火事にも、類焼を免れない。もし片田舎に住んでいるなら、町にでるのも大変で、また盗賊が出没する心配も多い。

 また成功して勢いのある者は貪欲で、頼るべき人をもたない孤独な者は他人に軽んじられる。財産を多くもてば、心配ごとが多く、貧しければ恨みごとは切実である。他人を頼りにすれば、自分の身は他人の所有物になってしまう。子供を作れば心は子供に対する愛着で振り回される。世の論理に従えば窮屈だが、従わなければ、つまはじきにされる。この世でどんな位置を占め、どんななりわいをすれば、少しの間でも、心安らかに日を送ることができるというのだろうか。

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 この部分は、五つの災厄を述べてきたすぐあとに続いています。
 こんなに悲惨ではかなく無常な世の中に対する厭世観を述べています。この部分には、下敷きにした先行文学の影響が顕著であるといいます。
 この部分を読んでいて、私はすぐに漱石の『草枕』の冒頭の部分を思いだしました。漱石と同様、長明も先行文学の厭世観を祖述して、自分の身の処し方の合理化をおこなっているものと思われます。それにしても、いつの世になっても、この世は生きづらいものだと実感します。