荘子、動物の振る舞いを見て、走り逃げたこと (巻10.13)
今は昔、中国に荘子(そうし)という人物がいた。頭脳明晰で物知りだった。
この人、道を歩いていると、沢の中に一羽の鷺がいて、何かを狙って動こうとしない。荘子、これを見て鷺を取ってやろうと思い、杖を手にして密かに近づくが、鷺は逃げようとしない。荘子、これを怪しんで、ますます近寄ってよく見ると、この鷺は一匹の蝦(えび)を狙ってじっと立っているのだった。それで人が自分を襲おうとしているのに気づかないのだった。またこの鷺が取ろうとしている蝦を見ると、逃げようとしない。これもまた一匹の小さな虫を狙って、鷺が狙っているのに気づかないのだった。
そのとき荘子は、杖を捨てて逃げだした。
思うに「鷺と蝦たちは、自分が危機にさらされていることに気づかないで、それぞれが他の者を獲物にする事だけを考えている。自分も鷺を打ち取ろうとするあまり、自分以上の者がいて、自分を獲物に狙っているのに気がついていないのだ。だったら逃げるにこしたことはない」と考え、走り去った。これは賢いことだ。人はそもそもこのように考えるべきなのだ。
また荘子、妻とともに水の上を見ていると、水面に大きな魚が浮かんで遊び泳ぐ。妻これを見て言う。「この魚は、きっと何かうれしいことがあったんだわ。うれしそうに泳いでいる。」荘子、これを聞くと「おまえはどうして魚の心がわかるんだい」と。妻これに応えて「あなたはなぜ私が魚の心を知っているか知らないかを知っているのですか」と。荘子、このとき曰く「魚でないので魚の心はわからない。私でなければ、私の心はわからない」と。これ、賢いことである。実に、親しい間といえども、人が他の人の心を知ることはない。
このように、荘子はその妻も心賢く深く悟っていたと語り伝えられているそうだ。
《コメント》
中国の古典「荘子」の中の二つのエピソードです。「荘子」劈頭の壮大なイメージのエピソードとともに、この二つとも私の大好きなものですので、この「今昔物語集」の記者と気が合うなあと思ったことでした。特に初めのものは、生物界の階層性を連想させるとともに、さらに深い何かを暗示しているように思えます。また二番目のものは、他者の心を理解することの不可能性という哲学的に深い洞察。