子の日(ねのひ)の宴の出来事
(今昔物語、巻28.3)

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 今は昔、円融院の天皇が退位されて後のこと、子の日(ねのひ)の逍遥(正月の初子の日に野原に出て小松を引き若菜を摘む行事)のために、船岡山においでになった。当時御所とされていた堀川院(二条南、堀川東)を出発され、二条大路から西に、大宮大路から北にお上りになったのだったが、沿道には御幸見物の牛車で立錐の余地もなくたてこんでいた。上達部や殿上人たちの装束はとても表現できないほどきらびやかなものであった。

 院は船岡山のふもとの雲林院(うりいん)の南の大門の前で馬にお乗りかえられ、紫野に到着された。船岡山の北面の小松が所々に群がり生えているあたりには、遣り水を流し、庭石を組み、白砂を敷きつめてある。さらには唐渡りの錦のまん幕を張りわたされ、簾(すだれ)がかけられ、板敷きが敷かれ、欄干がしつらえられている。その様の豪華なことはこの上ない。院が到着されると、その周囲に同じ錦のまん幕を引き巡らされた。院の御前近くには上達部の席が据えられ、次に殿上人の席があった。殿上人の席の末の方にまん幕に沿って横一列に歌詠みの席がしつらえてあった。

 院が座にお着きになると、上達部や殿上人たちは仰せによって着席した。歌詠みたちは前もってお召しがあったので、すでに皆がそろっている。「着席せよ」との仰せがくだり、順次進み出て着席した。その歌詠みというのは、大中臣の能宣(おおなかとみのよしのぶ)、源の兼盛(みなもとのかねもり)、清原の元輔(きよはらのもとすけ)、源の重之(みなもとのしげゆき)、紀の時文(きのときふん)たちであった。この五人は、前もって院からのお召し文が回されて召喚されていたので、皆正装の衣冠を着けて伺候していたのだった。

 皆が着席してしばらくしたころ、烏帽子を被ったじいさんが、丁子染めの地味な色の狩衣袴(かりぎぬはかま)のみすぼらしいのを着て、この歌詠みの末席に、何食わぬ顔で着席した。参集した人々は、あれは何者だと目を凝らして見ると、曽禰吉忠(そねのただよし)だった。殿上人たちは「あれは曽丹(そたん。曽禰吉忠のニックネーム)がきよったんか」とひそひそ声で尋ねると、曽丹は気色ばんで「その通りでござる」と答えた。また殿上人はこの行事の責任者に「あの曽丹が参っとおるが、あれも召したんか」と尋ねると「そういうことはありませぬ」と答えるので、さては他の者が命を受けて曽丹を召したのかと、いろいろ尋ねてみたが、だあれも心あたりがない。そこで行事の責任者が曽丹に後ろから近寄って「貴殿はどういうやっちゃ。お召しもないのに、ここに紛れこむとは」と詰問すると、曽丹の云うことには、「今日の子の日の祝いには、歌詠みをお召しになるとお伺いしたので、参上したのでござる。それがし抜きでは始まらないではありませぬか。それがしは参上した面々に劣るものではありませぬ」。責任者はこれを聞いて「やっぱこいつは、お召しもないのに押しかけてきよったんや」と了解し、「お召しもない者がここに参ってはならん。早う出て行かんかい」と追い立てたが、それでも曽丹はすまし顔で居座っている。

 その時、法興院の大臣(藤原兼家)や閑院の大将(藤原朝光)の方々がこのことをお聞きになり、「首根っこを捕まえてひったてよ」と命令されると、若く血気盛んな位の低い殿上人たちが大勢で、曽丹の後ろにまわって、幕の下から手を入れて曽丹の狩衣の襟を取って仰のけざまに引き倒して幕の外に引っ張りだした。そのあげく殿上人たちに一足ずつ踏み付けられたので、七八度ばかり踏まれたのだった。そこで曽丹はムクッと起き上がりなりふりかまわず走って逃げていった。殿上人の年若い従者たちや小間使いの子供たちは、曽丹の逃げていく後を追っかけ、手を叩いて笑い合った。馬が逃げたときのように大声をだして追っかけ騒々しいことはなはだしい。これを見ていた多くの人々、老いも若きも笑いさざめいた。

 この時、曽丹は船岡山の小高い所まで走り登ってふり返り、追いかけて笑う者たちに向って声を張り上げ次のように言ったものだった。「お前らは何を笑うことがある。わしは恥じるところもない者だ。だから言って聞かせてやろう。よっく聞け。大上天皇が子の日にお出ましになり、歌詠みをお召しになると聞き、この好忠が参上したのだ。衆議のカチグリをたっぷりいただいた。次に追い立てられ、蹴られた。何の恥るところがあろうぞ」と言うのを聞いて、身分の上中下の人々の笑い声はおびただしいものであった。その後曽丹は逃げて姿をくらましてしまった。

 当時の人々は、このことを笑い話にしたものだった。

 そんなわけで、家柄の低い者は、やっぱわかってない。好忠は和歌は詠んだが、了見ちがいで、歌詠みをお召しになると聞いて、召喚もされないのに参上してこんな恥をかいて、みんなの笑いぐさになって、末代まで物語りになったのだと語り伝えられているとのことだ。

                         《終わり》


《コメント》
 この話の舞台になった船岡山は、今でもおそらく当時の面影が残っているように思います。小松は現在でも探せば生えているのではないでしょうか。その北面には、このまさに行事が行われたとおぼしい平地があり、今では公園になっています。

 それにしても、笑いものになった曽丹こと曾禰吉忠は、なかなかの者だと思います。階級がほとんどすべてを決定するような社会であった平安時代に、これだけの矜持をもって自己主張する人物はそうそうはいなかったでしょう。しかしいかんせん平安時代にはそういった論理は、全く通じることなく道化の役回りになってしまいました。けれどちょっと考えてみると、現代の日本も、セキュリティが厳重になってこんな場面がめったに起こらないというだけで、事情は大して変わらないという面があるかもしれません。

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