◆袴垂(はかまだれ)、関山で人を殺す話(今昔、巻29.19)

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 今は昔、袴垂(はかまだれ)という盗賊がいた。

 この男は盗みを業(なりわい)としており、捕らえられ投獄されていたのだが、大赦にあって釈放されて娑婆に出てきたが、身を寄せる所もなく、さしあたってすべきこともないので、逢坂の関山(せきやま)に行き、そこで何も身につけず丸裸かで、死んだふりをして道端に倒れていた。その道を行き交う人々はこれを見て「こいつはどうして死んだんだろう。疵もないのに」と、しげしげ見て、議論しあっていた。そこに、立派な馬に乗った武者が、弓矢を背負って、多くの部下や一族の者たちを引き連れ、京の方向からやってきた。馬をさっと止め、従者を呼びよせ「あれは何を見ているのだ」と、様子を見にやらせると、従者は走って見てきて、「疵もない死人がおるのでございます」と報告する。主人の武者これを聞くと、居ずまいを正し、弓を取り直して、馬を現場から離して迂回し、死人のあるほうを注視しながら通り過ぎていくので、これを見た人々は手を叩いて笑い合った。「これほどの部下や一族を引き連れた武者が、死人に逢って臆病風を吹かすとは、たいした武者だなあ」などと、嘲笑していたが、武者はそのまま通り過ぎて行った。

 その後、人々は皆散っていって、死人の傍には人もあまりいなくなっていたが、また一人の武者がそばを通った。これは部下や一族もなかった。ただ弓矢を背負っていた。この死人のすぐ側まで近づいて、「哀れなやつだ。どうして死んだんだろう。疵もないのに」などと言って、弓で死人をつついたり引いたりしていたところ、この死人、突然その弓をつかみ、むくっと起き、素早く走り、その武者を馬から引き落とし、「親の仇は、こうするんだ」と云うが速いか、武者が前に差していた刀を引き抜き、刺し殺してしまった。

 さて、その武者の水旱袴(すいかんはかま)を引きはいで自分が着て、弓や胡録(やなぐい。弓を入れるもの)を取り、自分が背負って、武者の馬に乗り、飛ぶように東の近江の方向に逃げていった。やがて同じように大赦で釈放されて裸の者たちが十から二十人ばかり、予ての約束通りの場所で落ち合い、それを共人にして、道で行き会った者の水旱や馬を片っ端から奪い取り、また大量の弓矢や太刀なども手に入れ、武器を整え、馬を調達し、部下二三十人を引き連れた者として下っていったので、無敵の頭領となっていた。

 このような者には少しのスキを見せると、こういった結果になるものだ。それを悟らないで、無闇に近づいていくのは、まさに襲ってくださいと言っているようなものだ。始めに警戒して通り過ぎた騎乗の武者が誰であったのか、賢い武者だと思って尋ね調べて見ると、村岡の五郎、平の貞道という者だった。その人だと知ると、人々は「なるほど」と納得した。「これほどの部下や一族を引き連れているのに、このことを知って油断なく通過したのは、賢明なことだ。それに比べ、従者もない武者が、無闇に近寄って殺されたのは、浅はかなことだ」と、これを聞いた人々が、褒めたりそしったり、あれこれ評判したのだと、語り伝えられていることだ。
                            《終わり》

《コメント》
 袴垂は、当時非常に有名な盗賊です。この話の以外にも『今昔物語』の中で登場しています。この話から、やはりそれだけの知謀と行動力があることがわかります。 袴垂については、完全に外的な描写に終始しているのですが、そのイメージが生き生きと伝わってくるのは、さすがだと思います。朝廷はこのような危険人物を、大赦といえど、なぜ釈放してしまうのか不思議な気がします。

 また平安末期の当時であっても、路傍に死人がころがっていれば、大いに話題になったことは、興味深いところです。しかも話題が死因に関するもので、外傷がなければ不審とされるというのです。しかも、死体はそのままに放置されていたようです。また注解によると「死体は裸で髻(もとどり)を放つのが普通だった」そうです。つまり、着物を引きはいで、髪はざんばら髪にしていたというのです。着物はリサイクルしていたのでしょう。

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