今昔物語巻29・29
女、乞食に捕らえられ、子を捨てて逃げること
今は昔、某の国、某の郡のある山で、乞食が二人づれで歩いていたが、その前を子供を背負った若い女が歩いていた。
この女、乞食が後ろに迫ってくるのを感じ、道端に避けてやり過ごそうとしたが、乞食たちは立ち止まって「いいから先に行け」と、先に行こうとしないので、女はしょうことなくそのまま進んでいくと、乞食の一方が突然女に襲いかかり、捕らえた。
この女は辺りが人けのない山奥なので、抵抗のしようもなく、「これは何をなさいます」と言うと、乞食「さあ、そちらに行け。話しがある」と、山中に強引に引き入れると、もう一人の乞食はそばに立って見張りをしている。
女「そんなに乱暴をなさらないで。おっしゃることはお聞きしますから」と言うと、乞食「よしよし、だったら、いざ・・・」と言う。
女「いくら山の中とはいえ、こんな広いところで肌を許すことはできませんわ。柴などで回りを囲ってくださいな」。乞食は「そういえばそうだ」と思ってよく葉の茂った木の枝を切り落としたりして囲いを作った。その間、もう一人は女が逃げ出さないか見張っていた。
女「私はよもや逃げたりなどは致しませぬ。ただ今朝から腹をひどくこわしていますので、あそこまで行って用を済ませてこようと思いますので、しばらく待っていただけますか。必ず戻ってきますから」と懇願するが、乞食はとても許さない。女「ならばこの子を人質に置きましょう。この子は我が身にまして大切なもの。身分がどうであれ、子供を愛し大事に思う心は皆知る通りでございます。この子を棄てて逃げるというようなことはいたしません。ただたいそう腹をこわしてひっきりなしに下していますので、あそこで済ませようと思うのです」と言うので、乞食はその女の子供を抱き取って「まさか子供を棄て置いて逃げることはないだろう」と判断して、「じゃあ、早く済ませて戻ってこい」と言った。
女は遠くに行って、用を済ませるように見せかけ、「このまま子供にはかまわないで逃げよう」と思い、走って逃げていった。するとまもなく道に出た。
ちょうどそのとき、弓矢を背負って馬に乗った侍が四五人集ってくるのに行き会った。女が息も絶え絶え走ってくるのを見て「そこの女、何をそんなに走るのか」と問うと、女は事情を語る。これを聞いた武者たちは、「よし、その乞食たちはどこだ」と、女の教えたとおりに馬を走らせ、山中に分け入って見ると、先ほどのところに柴で囲いを作り、その中で子供を引き裂いて逃げたあとだった。そんなわけで、それ以上はどうすることもできなかった。
子供は愛しいけれど、乞食の餌食にされるわけにはいかないと、女がわが子を棄てて逃げたことを、この武者たちはみな感心し、褒め称えた。
こんなわけで、身分の卑しい者の中でも、このように恥を知るものがいるということであった。
《コメント》
目を覆いたくなるような悲劇ですが、何点か疑問点があります。
まず、乞食という存在はどういうものだったのかということ。現代の日本の社会には、これに対応する人々はいないように思います。昔の日本の社会の闇の部分がどんなだったか、興味が湧いてきます。
次に女の判断からすると、当時の子供に対する価値観は相対的に低かったのではないかと疑いたくなります。女は子供に対する愛情を強調したにもかかわらず、それほどではなかったのかと。女の行動の動機には、どんな価値観があったのでしょうか。簡単にはいえませんが興味が湧きます。
また、女の行動を褒め称える武者たちの価値観はどんなものであったのでしょう。貞操といったことを考えているのでしょうか。武士道の萌芽的な形態なのでしょうか。
これは「恥を知る」という作者のコメントとは、微妙に違っているような気もします。
こんなふうに、考えていくと色々な疑問が湧いてくるのです。
いずれにしても、現代でもありうる犯罪ですが、主人公の女は究極の判断をしたといえるでしょう。