賀茂の祭りの日、大路に札をたてて見物した翁の話し
(巻31・6)
今は昔、賀茂の祭りの日、一条大路と、東の洞院の通りの交差点のあたりに、明け方から立て札が立っていた。その札には、「ここは、翁が見物する場所である。ここに立つべからず」と書いてあった。
人々はこの立て札を見て、その場所には近寄ろうとしなかった。「これは陽成院さまが、祭り見物をなさる場所に立てられたものに違いない」と、人々は噂し合い、徒(かち)の人は近寄ろうとはしなかった。ましてや牛車に乗る人などはその札のあたりに車を止める者は誰もいなかった。やがて行列が通ろうとするころになって、見ると、浅黄色の上下の粗末なきものを着た老人が一人どこからともなく出てきて、桟敷の人たちを見上げたり、地べたに座る人々を見下ろしたりして辺りをうかがい、満足すると扇をゆったりと使って、その立て札の下に佇み静かに祭りの行列を見物し、通り過ぎると帰っていった。
すると人々は、「陽成院さまがお成りになってご覧になるはずやったのに、お越しにならなんだんはどういうわけやったんやろ。札立てはったのにお越しならんのんはども変や」と、人々は口々に言い合ったが、ある人の言うには、「ここで見物してよったじいさんの様子がどうもあやしい。このじいさんが、院の立てはったんと人に思わせるように札立てて、自分の場所を確保して見物しとおったんに相違ない」。
いろいろ人々は取りざたをしていたのだが、やがてこのことが陽成院さまの耳に入り、「その翁を、召し取って尋問せよ」とおっしゃるので、その翁を探しだしてみると、それは西の八条の刀禰(地区の長)であった。そこで院から人が派遣され、当の翁が召し上げられたのであった。
院の役人が尋問する。「おまえは何を思って『院が立てられた札』と書いて、一条大路に札を立て、人を脅し得意顔で祭り見物をしていたのだ。その理由をしっかり申し上げろ」と問い詰めると、翁は「札を立てたのは確かに私めがしたことでございまする。ただ院が立てられた札とは、一向に書いてはおりませぬ。私めはすでに齢(よわい)も八十にものなっておりますので、祭り見物をしようという気持ちはごさいませなんだ。ところが私めの孫が今年蔵司の小使いになり、行列に参じました。その姿を一目見たくて見たくてがまんならず、見物に参ろうと思いよりました。しかしこの齢ではぎょうさんのお方の中で見ようにも、踏み倒されて死んでしまっては甲斐もないと思い、他のお方が寄られないところで安心して見物しようと思って立てたのがこの札でございます」と陳述した。陽成院はこれをお聞きになり、「この翁、よくぞ思いついて札を立てたものだ。孫の晴れ姿を見ようするのは、道理だ。この翁は極めて賢いやつだ」と、感心されて、「早く引き下がれ」と仰せになるので、翁は得意顔の様子で家に帰って、ばあさんに「わしがたくらんだことが悪い訳がない。院もこんなに感心されたのだ」と言って、自分で大したものだと思って悦に入っていた。
だが世間の人々は院がこんなに感心されたのには、よくは思わなかった。ただし、翁が孫の晴れ姿を見たいと思うのは道理だと、人々は言い合ったことだと、伝えられていることだ。
《終わり》
《コメント》
・五月の京都は、昔も今も「賀茂の祭り」すなわち、「葵祭」なしでは語れません。しかし祭りに対するパッションは『源氏物語』の葵の上と六条御息所の車争いから、葵の上が呪い殺されるのを引き合いに出すまでもなく、昔の方が格段に熱いものがあったようです。この話しは、孫の晴れ姿を一目見んために、智恵を働かす老人の工夫をある種賞賛をもって描いています。