◆馬にされた僧の話(巻31.14)
今は昔、仏道の修行をする僧が三人、四国の辺地である伊予、讃岐、阿波、土佐の海辺を巡っていた。この僧たちある日道に迷い、思いがけず深い山の中に入り込んでしまい、浜辺に出られなくなってしまった。
とうとう人も通らない深い谷に踏み入れてしまい、いよいよ嘆き悲しみながらもイバラなどの刺に傷つけられて進んでいくと、一つの平地にでた。見れば垣根で囲われた場所がある。「ここはきっと人が住んでいるにちがいない」と思うと嬉しく、早速垣根の中に入ってみると、建物もあった。たとえ鬼の棲み家であったとしても、今となってはどうしようもない。外にはなす術もないので、その家に近寄って「お願いいたします」と言うと、家の中から「どなたかな」と問う。「修行の身の者でござりますが、道に迷って困っております。どちらに行ったらよろしいものか、お教えねがえませぬか」と言うと、「しばらくお待ちください」と、内から出て来たのは、年は六十ばかりの僧形のものであった。その姿はまことにおそろしげであった。
その僧が呼び寄せるので修行の僧たち「これが鬼であっても神であっても、こうなってはしかたがない」と覚悟を決めて三人とも家に上がり座ると、その僧「お宅らはお疲れになられたでしょうな」と言って、間もなく大層りっぱな食事をもってきた。僧ら「これは鬼といったものでなく、普通の人間なんだ」と、大層うれしく、食事を平らげると、この主(あるじ)の僧、非常におそろしげな形相になって人を呼ぶので、「コワー!」と思っていると、来たのはこれも怪しげな法師であった。主人「例の物をもってこい」と言いつけると、その法師は馬の轡(くつわ)と鞭(ムチ)とをもってきた。
主人の僧「いつものようにせよ」と命令すると、一人の修行僧を板敷きから引きずり落とした。あとの二人は「これは一体何をしようというのか」と思う間に、そのまま庭に引きずっていき、その鞭で背中を打ちはじめた。正確に五十回鞭打った。修行僧、「助けてくれ!」と声をあげて叫ぶが、あとの二人にはどうしょうもない。さらに着物を引きはがし、直接背中をまた五十度鞭打った。計百度打たれて修行僧はぐったりうっぷししているのを、主の僧が「引き起こせ」と命令し、その僧が引き起こされたのを見ると、何とたちまち姿が馬に変わって、ぶるぶる身震いして立ったので、法師は轡をはめて引き立てて行った。
残った二人は、これを見て「これはどうしたことだ。この世のこととは思われぬ所だ。俺たちもあのようにしようというつもりなんだ」と考えると、気も動転し、呆然としている内に、次の一人の修行僧を板敷きから引きずり落とし、同じように鞭打ち、それが終わって引き起こすと、それも馬になって立っていた。これにも轡がはめられ引き立てられて行った。
最後の修行僧「自分も引き落とされ、同じように打たれてしまうんだ」と思うと、悲しく、常日頃信心しているご本尊に「私をお助けください」と心の内で懸命に念じる。その時、主の僧「そいつはしばらく置いておけ」と命じた。「じっとそこにいるのだ」と言われた所におとなしくしている内に、やがて日が暮れてきた。
修行僧「自分が馬にされるよりは、とにかく逃げよう。追っ手をかけられ捕らえられて死ぬのも、同じ死ぬにはかわらない」と考えるが、案内も知らぬ山の中なのでどちらに逃げたらいいのか分らない。また「どこかに身を投げて死んでしまおうか」と、さまざま考え思い嘆いていると、主の僧はこの修行僧を呼んだ。「ここにおります」と答えると、「あちらの後ろの田に水があるかを見てこい」と命令するので、おずおずと行って水があるのを確かめ、「水はあります」と報告する。これも自分をどうしようと思ってのことなのだろうかと考えると、生きた心地もしない。
そうこうする間に、人がみな寝静まると、この修行僧「ただ逃げよう」とひたすら思い、笈(おい)も捨ててただ身体一つで走りでてやみくもに走ったが五六町(半キロ程)は来ただろうと思うころ、別の家があった。「ここもどんなところだろう」と恐ろしく、走りすぎようとしていると、家の前に一人の女房が立って、「そこのお方、いかがされたのでしょう」と尋ねるので、修行僧恐る恐る答える。「こんな事情で身を投げてでも死のうと思っていたところです。お助けください」と言うと、女「何と、そんなこともあるでしょう。お気の毒なことです。まあここにお入りなさい」と言うので、その家に入っていった。
その女の言うには、「長年、このようないやなことを目にしてきましたが、私の力ではどうしようもございません。しかし、おなたさまは何とかしてお助けいたしましょう。私はあなたさまがいらっしゃった家の主の一の娘でございます。ここから下にまいったところに私の妹にあたる者が住んでおります。その妹だけがあなたさまをお助けできるでしょう。ここから来た旨をおっしゃって渡していただくように手紙をお書きいたしましょう。」と、手紙を書いて渡す。「二人の修行僧をすでに馬に変え、あなたさまを土に埋めて殺そうとしたものです。田に水があるかと尋ねさせたのは、埋めようとしたものです。」これを聞くと、よくもまあ逃げ出したものだと、手紙をもらってその女に向かい手を合わせ、涙ながらに伏し拝み、走り出て、教えられた方角をさして二十町ばかり来たころに、片方に山があるふもとに一軒の家があった。
ここだろうと思って、近寄って「これこれの手紙をもってまいりました」と案内を請うと、使いの者が取り付いで、「こちらへお入りください」と言うので、男はその家に入っていった。ここにも女主人がいて、「私も長年嫌なことと思っておりますが、姉がこのように書きよこしているので、あなたさまをお助けしようと思います。ただしここは大層恐ろしいことが起こる所でございます。しばらくはここにお隠れなさいませ。」と言って、一間の狭いところにかくまった。「くれぐれも音を立ててはなりませぬ。そろそろ、時刻が迫っております。」と言うので、この修行僧、何事だろうと恐ろしく、音もたてず、身動きもしなかった。
しばらくすると、恐ろしい気配を感じる者がその家入ってきた。生臭い匂いもただよってきた。修行僧は恐怖で身動きもできない。「どんなに恐ろしい鬼なんだろう」と考えている間に奥に入ってきて、この家の主の女房とむつまじく話しをして、二人で床に入ったようすだ。なお耳を澄ませていると、女を抱いてから、帰っていったようだった。修行僧、この成り行きから考えると、この女房は鬼の妻で、この鬼は普段からこのように女房を抱いて、また帰っていくのだと悟った。そう考えるにつけても身の毛がよだってくる。
さてこの女房、修行僧にここから出る道を教えて、「ほんにまあ、命拾いをなされました。お喜びなさりませ」と言うと、修行僧は最前のように泣く泣く拝むようにしてそこを出て、教えられた通りの道をたどっていくと、夜明けも近くなった。もう百町(十キロ程)ほども来たと思うころに夜が白々と明けてきた。気が付くと、普通のまっとうな道に出てきているのだった。その時にようやく、助かったと心が落ち着いてきた。嬉しいなどという言葉では言い表せないほどだった。
そこからさらに、人里を求めて進み、修行僧は人の家に入ると、これまでの出来事を細かに話すと、その家の人も「なんとまあ、恐ろしいこと」と驚いた。その村の者たちもこの話しを聞き付けて、盛んに質問してくる。その逃げ出してきた所は、某の国の某の郡(こおり)の某の郷であった。
さて、あの二人の女房が修行僧に堅い約束をしていた。すなわち「このように、助かるはずのない命をお助けいたしました。ですから、このような場所があるということを、くれぐれも人々にお話しなさらないように」と。繰り返しこのことを約束したが、この修行僧は「こんなに恐ろしいことを、言わないではおれようか」と、この経緯(いきさつ)を言い触らしたので、この国の若い男たちで、腕に自信のある者たちは軍勢をしたてて退治しようと勇みたっていたが、そこに行く道もなかったので、自然にその話しも消えていった。そんな状態だったので、件(くだん)の僧もこの修行僧が逃げ出しても道がないので逃げられないと考え、急いで追うこともしなかったのだろう。
さて、この修行僧はそこから街道をたどって京の都まで上ってきた。その後その場所が具体的にどこにあるということを聞かない。目の前で人を馬に変えるというのは、それ以上に不審である。これは畜生道に迷い込んだのでもあろうか。
この修行僧は京に帰って、馬に変えられた二人の仲間のために、その成仏を祈って功徳を積んでやった。
この話しを考えるに、いくら身を捨てて修行するのが大切だと言うものの、やたら事情の分らぬ場所に行ってはならない。
この話しは、この修行僧本人が語るのを聞き、このように語り伝えたものであるということだ。
《終わり》
《コメント》
この話は私が子供のころ、TVで映画放映されていたことを思い出します。確か白黒映画だったように記憶しています。何か異様な雰囲気をよく出していたように思いますが、その映画の題名は全く覚えていません。巨匠の作品だったのかも知れません。その原話に巡り合うことができるというのも、「今昔物語」を読む一つの悦しみなのです。
また最後のコメントも、実用的な教訓となっています。私はこういうコメントが大好きです。