錦小路の由来
宇治拾遺物語19
今は昔、清徳聖という聖がいた。その母が死んだので、遺体を棺に入れ、ただ一人愛宕山に持っていき、大きな石を四隅に置き、その上にこの棺を置いて、千手陀羅尼を片時も休むことなく、眠ることもせず、物も食べず、水も飲まないで、声も絶やすことなく、お唱えをして、この棺のまわりを巡ること三年になった。
その年の春、夢となくうつつとなく、ほのかに母の声で「この陀羅尼をこんなに夜昼読んでいただいたので、私は男となって天上に生まれかわったのですが、どうせなら仏になってから、お知らせしようと考え、今までお知らせしませんでした。今は首尾よく仏になりましたので、お伝えするのです」と言ったように聞こえた。「そのように思っていたところだ。今は既に成仏されたのだ」と聖は思い、遺体を取り出し、そこで焼き、骨を拾い集めて埋め、その上に卒都婆などを立て儀礼の礼をつくした。そして京に上る途上、西ノ京で水葱(ナギ)がたくさん生えている場所に行きあった。
この聖、空腹でたまらず、道みちそれを折りとって食べていると、畑の持ち主が出てきた。大層ありがたそうな聖が、こんなに水葱をがつがつと折りとって食べているので、びっくりして、「いったいどうされたのでしょうか」と尋ねる。聖「空腹でたえられずたべたのです」と答える。「そんなわけなら、思う存分にお召しあがりませ」と言うので、三十本ばかりムズムズと折って食べてしまった。この水葱(ナギ)は三町ばかり植えてあったが、こんなふうに食べたので、持ち主は大層びっくりして、その食べっぷりを見てやろうと思い、「ほしいだけいくらでもお食べなさい」というと、「ああ、ありがたい」と膝でずりながら葱を折りながら、三町をあらかた食いつくしてしまった。持ち主の男は「たまげた大食いの聖だ」と思い、「しばらくお待ちなされ。食事をさしあげましょう」と言って、白米を一石(100升)取り出して、飯に炊いて聖に食べさせると、「このごろものも食わずに、ひもじかったので」と全部食べてしまって出ていった。
この男、たいそう驚いて、これを人に話した。それを聞いた人が坊城の右の大殿(藤原師輔)に申し上げたので「どうしてそんなことが可能なんだろうか。その聖を呼んで物を食わせてみよう」と思われて、「仏縁を結ぶために、食べ物を差し上げましょう」と、お呼びになると、いかにも偉そうな聖が歩いて参上した。その後ろには、餓鬼や畜生、虎や狼や犬にカラス、数万の鳥獣など、五万と歩いてくるのだが、ほかの人には全く見えない。ただ聖一人とだけだと見えるのだが、この大臣はこの有り様を見つけられて「だからこそ尊い聖であったのだ。めでたいことだ」とたたえて、白米十石を飯にして、新しいムシロに、オシキ、オケ、ヒツなどにご飯を入れて、イクイクと置いて食べさせると、後ろに立った者どもも、集まってきて手に捧げ持ってみな食べてしまった。聖はちっとも食べないで喜んで出ていった。「だからただの人ではなかったのだ。仏などが姿をお変えになって歩いておられるのではないだろうか」と思われた。一般人の目にはただの聖一人で食べているように見えるので、一層驚くべきことに見えたのだった。
さてこうして出行くと、四条通りの北の小路で聖は糞をたれた。この尻にくっついた者どもも糞をひり散らした。辺り一面ひたすら墨のように黒い便を、見る限りすきまなくし散らした。そこで下々の者も汚がって、その小路を糞の小路と名付けた。これを帝にお聞かせしたところ「その四条通りの南を何と言うのだ」とお尋ねになる。そこで「綾(あや)の小路と申します。」とお答えすると、「ならば錦(にしき)の小路と言うことにしよう」と仰せられたので、その時からこの小路を錦の小路と呼ぶようになった。
《終わり》
《コメント》
京都の台所と呼ばれる、全国的に有名な市場のある『錦小路』の名前の由来譚です。市場の人々がこの話を知ったら、そのキタナサにひっくりかえりそうな話ですね。
文献によるともともとは、「具足小路」と呼ばれたものが、「グソク−−>クソ」と変化して、この説話が生まれたということです。それにしてもこの強烈なエゲツナサには圧倒されてしまいます。また「綾」と「錦」の対応は、少し出来過ぎの感がありますが、実際に四条通りを挟んで南と北の通りは現在でもこう呼ばれているのです。なお「綾小路」は、祇園祭の「綾傘鉾」で有名です。