梅とお土居

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 北野天満宮の梅の花は、今年も見事に咲きました。ここの本殿の西側には広い梅苑があり、とりわけ「お土居の梅」と呼ばれる所は美しいものです。
 「お土居」といっても、多くの方々は初耳ではないでしょうか。

 「お土居」というのは、豊臣秀吉が京都の町の周囲に築いた城壁のことです。外側に掘を作り、その土を盛り上げて造ったようです。上の画像では小道の右側の木の茂った土手のような高まりがお土居なのです。高さはここでは10メートル近くもありそうです。小道の左側は紙屋川が流れています。
 お土居は、東は鴨川の西岸、西は紙屋川の東岸、北は玄琢(げんたく)、南は東寺までを囲繞して、その総延長は23キロにもなるとのことです。この城壁によって秀吉は洛中と洛外とを分けたのです。当時の京都の都市としての広がりが想像できます。この範囲が地図で示されていました。

 現在残っているのは、お土居のごく一部にすぎません。ここ北野天神の梅苑は、よく当時の姿をとどめているようです。秀吉はこの城壁を天正19年(1591)に着工し、4-5ヶ月という驚くべきスピードで完成したといいます。そのせいか基盤の石垣には、墓石やお地蔵さんまで使われたそうです。秀吉の強引なやり方の一端を伺うことができます。
 お土居は軍事的目的と水害防止の目的があったそうですが、都市の周囲を城壁で囲むというのは、中国や中世ヨーロッパ都市の大陸的な発想のようにも思われます。
 城壁には七つの門が造られ、北の鷹ヶ峯「長坂口」、東の加茂川出雲路橋「鞍馬口」、寺町今出川「大原口」、三条大橋「粟田口」、南の五条大橋「伏見口」、東寺「鳥羽口」、西の七条千本「丹波口」で、これは「京の七口」といわれ、現在でも地名として道標などが残っています。
お土居は、上にも述べたように現在ではほとんど残っていませんが、お土居があった場所は、「土居町」という地名として残っています。

それにしても、お土居の梅の美しさは、秀吉の開いた「北野の大茶会」の華やかさもかくや、と思わせるほどです。もっとも大茶会は秋に行われたようですが。

白梅の枝にただ一輪の咲いた紅梅は、秀吉の栄華の儚さを
物語っているような気がします。

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